幕末の三舟
鉄舟の人生観・宇宙観

人間と天地自然の基本的在り方
「我の思わくは、人の心は宇宙と同じからざるべからず。心すでに宇宙と等からば、天地万物、山川河海もまた我が身と等しかるべし」
 山岡鉄舟

生死超脱への道
「人の生死は昼夜の道なりと心得べし。しからばすなわち、何をか好悪し、何をか憂慮せんや。ただ道に従って自在なるのみ。深くかんがみざるべからず」
 山岡鉄舟

剣道観
「余の剣法を学ぶは、ひとえに心胆錬磨の術を積み、心を明らめてもって、己また天地と同根一体の理はたして釈然たるの境に到達せんとするにあるのみ。世人剣法を修むの要は、恐らくは敵を切らんがための思いなるべし。余の剣法を修むるやしからず。余はこの法の呼吸において、神妙の理に悟入せんと欲するにあり」
 山岡鉄舟

事変に際して生死の分に堪え忍ぶ

「いかなる万変に合うも、いささかたりとも動かず、その難を堪え忍び、綽々として、その境遇に座を占め込んで、その大事を処理するというに至っては、その苦心惨憺の状は、とても死ぬくらいな手軽ではできざるはずなり。しかるを、その苦しさに死してその難を免るるなどは、まずまず錬胆の実薄く、忠孝仁義の誠に乏しき、畢竟愚鈍の沙汰なりと心得べし」 山岡鉄舟

武士道観

「善悪の理屈を知りたるのみにては武士道にあらず、善なりと知りたる上は、直に実行にあらわしくるをもって、武士道と申すなり。そしてまた武士道は、本来心を元として、形に発動するものなれば、形は時に従い、事に応じて変化変転極まりなきものなり」 山岡鉄舟

朝廷に奉仕すること

勝海舟談

「いったい性質の潔白と剛直と至っては、山岡くらいな奴はそんなにあるものではない。また山岡は一度賊名を得た徳川の家臣だ。しかるに一朝徳川幕府が亡びてしまったから、幕府の滅亡と共に彼も地下に沈まねばならぬということは、物識らずの考えで、彼はそんな無識ではない。彼の心中には真の武士道がある。たとえば我々が維新の頃、一兵も動かさずして、江戸城を官軍に引き渡したことは、やはり武士道から割り出したのだ」

将軍の使者として生死を賭してその任を果たさんとする不動の決

「自ら天地に誓い、死を決し、官軍の営に至り、大総督へのこの衷情を言上し、国家の無事を謀らんと欲す。大総督府本営に到るまで、もし余の命を絶つものあらば曲は彼にあり、余は国家百万の生霊に代わりて生命を捨つるは、もとより余が欲すところなりと、心中青天白日の如く一点の曇りなき赤心を云々」 山岡鉄舟

山岡出現の理由(勝海舟談)

「そこで彼は身命を惜しむものではない。直に官軍の大総督府に至り、天下の惑いを説いて主君の誠意を詳訴いたさんと、盤石の如き大決心、ひたすら思うところは、前途憂国にあり、目前には江戸百万の生霊に代わって一命を差し出そうという覚悟だから、その至誠に出たところは、天地も動くがごとき勢いである」 勝海舟談

西郷、海舟の見識と度量(勝海舟談)

「山岡が俺の問いに対し、もはや、今日の我が国において、幕府の薩州のとそんな差別はない。挙国一致だ、四海一天だ、天業回古の時期は今だというたが、当時おれは彼の言を聞き、これは並大抵のものでないと、ほとほと感心したよ。西郷はここまで考えていなかったようだ。いな、当時こんな思想を持っていたものは外にはいなかったよ」勝海舟談

国難解決に処し、敵味方の立場を超え、生死を共にするに至った西郷・山岡(勝海舟談)

「ここに注意すべきは、西郷と山岡とは、もはやこの時は、幕府とか官軍とか山岡の頭にはなく、駿府ですでに両人会見後は、互いに水魚の誓いをなし、世界対日本の維新という外なんにもない。また、山岡は西郷との前約上、万一西郷の身辺に危害でも加えるものがあっては相済まぬとの心から、西郷の江戸付近に滞在中は、山岡自身常に西郷と居を共にして、生死を共にしていたのである」 勝海舟談

鉄舟自らの心境

「世あるいはいう、かの山岡は旧幕臣なり、かって徳川氏賊名をこうむり、官軍追討するところとなり、ついに滅亡して今日わずかにその残骸を止むるのみ。いやしくも徳川の遺臣たるものは、身を野人にゆだね、世事を脱し、つつしんで君父に謝すべきなり。しかるを思わず、かれ身の栄華をむさぼり、敵人薩長のやからとともに廟堂に出入りし、恬として恥じず、意気揚々、得意然たるはふらちの限りなりとて、余をののしるものあり。

このやからの言またもとより無情の放言にあらず、余深くその心中を愛すといえども、これあたかも仏教の小乗を知りて、いまだ大乗の何たるを知らざるもののごときのみ。余あえて抗弁せず、つつしんで神仏の光明に任じ千歳の知己を待つ」 山岡鉄舟

晴れてよし曇りてもよし富士の山
       もとの姿は変わらざりけり 明治5年12月宮内侍従 山岡鉄太郎