武士道6−1
武士道における勇 1

「義を見てせざるは勇なきなり」
:孔子

勇気とは正しいことをする勇ましい心。

「勇ありて義なきは乱を為す」
:論語

勇気があっても、そこに義がなければ世を乱すもととなる。真の勇者は、死に値しないことのために死んだり、ただ闇雲に危険を冒すことなどはしない。それらは「犬死」とか「蛮勇」としてさげすまれる対象であった

7 人 の 侍

毎年、野武士の集団に襲われ困り果てた村の百姓達が、、仕官の口を探している浪人達であふれている宿場へ、腹一杯の飯を報酬として浪人探しに出かける。浪人達が武術を鍛えたのは戦いに出て手柄を立てるためであり、百姓の味方をするためではなかった。百姓達の窮状はわかるが、どう考えても間尺に合わない。あるサムライの顔が引き締まり、コメの飯が盛られた飯椀をじっとみつめ「よし、わかった。このメシ、おろそかに食わんぞ」と決心する。

このときのサムライの心を動かしたものは何か。「義を見てせざるは勇なきなり」の精神である。その戦いで仕官や特別な報酬がなくとも、義あれば命がけで助ける。そこには打算も損得もなく、あるのは弱きを助け強きをくじく、といった「義」の心のみであった。そして、このときの「義」をふるいたたせるもう一つの徳が「勇」である。

「義をみてせざるは勇なきなり」を実行するとなるとなんと難しいことか!現代社会において、最も消滅したのは、この「勇」である。子供たちの“いじめ”も、組織における不正や不祥事にしても、誰もが自らの保身を考え、言わねばならないこともいえず、“長いものにはまかれろ”という方便を利用してごまかしている。それを真正面から戦おうとする勇気がなくなっているからである。世に悪がはこびるのはこのためである。そのために武士は、「義」を遂行するための精神修行と同時に、一方において武術を鍛え、それによってさらなる勇気と胆力を積むことを要求されたのだ。武士の教育が「文武両道」といわれるのはこのためである

「真勇は怯に似たり」…山岡鉄舟を指す

本当の勇者は泰然自若、一見すると臆病者のようであったという。しかし事あれば命を投げ出して役目を果たす。

いま、なぜ「武士道」か  岬龍一郎 致知出版社