武士道6−2
武士道における勇 2

「戦場に駆け入りて討死するは、いとやすき業(わざ)にて、いかなる無下の者にてもなしえられるべし。生くべき時は生き、死すべき時のみ死するを真の勇とはいうなり」
徳川光圀(水戸黄門)

勇は義を基盤としたものでなければならない。
要は、“大勇”(まことの勇気、大事に当たって奮い起こす勇気)と、“匹夫の勇”(思慮分別なくただ血気にはやる勇気、小勇)とをはっきり区別しなければならない。


敢為堅忍の精神:勇
敢為:物事をおしきってすること
堅忍:しっかりと耐え忍ぶこと。がまんづよくすること

「義を見てせざるは勇なきなり」・・勇とは義(ただ)しき事をなすことなり

タクシーの乗り場で順番を待つ列に男が割り込んでくる。このようなことに義憤を感じない人は希であろう。つまり、ほとんどの人間に「義」はあるのである。問題はその先である。多くの場合「触らぬ神にたたりなし」とばかり、見て見ぬ振りをするのではないか。下手に正義感を出してケガでもしたら損だし、最近は殺されてしまうこともあるのでバカバカしいと思って黙認しがちである。いずれの場合も、「勇」がないのである。
これを「義を見てせざるは勇なきなり」というのである。割り込み男が見るからに弱そうだったらどうか。たとえ殴り合いの喧嘩になっても“自分”は絶対に負けない、と思える場合である。このような場合には、「勇気」を出し喧嘩になるのも覚悟の上で、彼らをいさめるかも知れない。しかし、相手が屈強で、喧嘩が強そうで、ひょっとすると刃物を持っているかも知れない、という場合には、「勇気」を出すことをひるみ、結局は見て見ぬ振りをするのではないか。一般に、「世の中」というのは、こういうものである。だから、小さな、弱そうな「悪」は退治できても、大きな、強そうな「悪」は世にはこびるのである。つまり、義を見て勇を全うするためには肉体的な「強さ」「力」も不可欠なのである。
世の中が「話せばわかる」連中ばかりで成り立っているのなら、警察も裁判所もいらない。それだから、武士は義を見て勇を全うするために、道徳律を高める精神的修行と同時に、武術を鍛錬し、それによってさらなる胆力、敢為堅忍の精神を生むことが求められたのである。

義と勇を一体化させるためには、文と武の一体化、つまり「文武両道」が不可欠であった。

子の鍛錬

剛毅、不撓不屈、大胆、勇気等のごとき心性は、少年の心に最も容易に訴えられ、かつ実行と模範とによって訓練されうるものであって、少年の間に幼児の頃から励みとせられたる、いわば最も人気のある特であった。母の懐を離れていない小児の頃から、すでに軍(いくさ)物語を繰り返し聞かされた。もし何かの痛みによって泣けば、母は子供を叱って「これしきの痛みで泣くとは何という臆病者です!戦場で汝の腕が切り取られたらばどうします?切腹を命ぜられた時はどうする?」と励ました我慢と勇気の話は沢山ある。しかし少年に対し敢為自若の精神を鼓吹する方法は決してこれだけではなかった。時には残酷と思われるほどの厳しさをもって、親は子の胆力を錬磨した。時としては食物を与えず、もしくは寒気にさらすことも、忍耐を学ばしむるに極めて有効なる試練であると考えられた。幼少の児童に用を命じて全然未知の人に遣わし、或いは厳寒といえども日の出前に起き、朝食前素足にて師の家に通って素読の稽古に出席せしめた。
「武士道」:新渡戸稲造

自若:大事に直面しても落ち着きを失わず、平常と少しも変わらないさま

誰もが反対することの出来ない「ゆとりの教育」なるものが行われれば、いま以上に“自由”と“自分勝手”、“個性”と“わがまま”とをはき違えた日本人が大量に作り出されてしまうはずである。

いま「武士道」を読む  志村史夫 丸善ライブラリー