道場訓、押忍
森川先輩
ひとりよがりの道場訓
(勝手に解釈)


一、人格完成に努むること
         ・・智、仁、勇の完成

行動するサムライが追求した「品性」とはなにか?
武士の訓育にあたって第一に必要とされたのは、
その品性を高めることであった。

明らかにそれとわかる思慮、知性、雄弁などは
第二義的なものであった。

武士道の枠組みを支えている鼎(かなえ)の三つの足は
「智、仁、勇」
といわれ、
それぞれ智恵、慈愛、勇気を意味している。


「勝算なきは戦うなかれ」が孫子の兵法の基本的な前提条件の一つであるが、勝算のあるなしを見分けるのが智にほかならない。状況を読む力、あるいは先見力といってもよい。じつをいうと、人間の識別能力には智よりももう一つ上のレベルがある。それは「明」である。では智と明のちがいはどこにあるのか。「老子」という本に、「人を知る者は智なり、己を知る者は明なり」とある。将たる者はできれば明でありたいが、とりあえずは智でよろしいということだ。明はかなり先天的な能力であるが、智は後天的な努力で身につけることが出来る。それには先人の経験に学ばなければならない。

わかりやすくいえば、思いやりである。部下をこき使うだけで思いやりのないリーダーは、部下を心服させることが出来ない。組織としてのまとまりにも欠けてくる。そうならないためには、リーダーたる者は部下の心をとらえる魅力がなければならない。そのためには、仁が必要だ、というのである

武士の情け:
敗れたる者を慈(いつく)しみ、おごれる者を挫き、平和の道を立つること

これは勇気と理解してよい。あるいは決断力といってよいかもしれない。勇というと、われわれ日本人は、とにかく前へ前へとやみくもに進むことが勇だと思いがちである。だが、中国人にいわせると、それは、勇は勇でも「匹夫の勇」にすぎない。将たる者の勇とは、勝算なしと見極めたときには、ためらわず撤退する勇である。つまり、あえて後へ退く勇、これが孫子のいう勇にほかならない。

もっとも剛毅なる者はもっとも柔和なる者であり、愛ある者は勇敢なる者

「人が恐れるべき事と、
恐れるべきでないことの区別」こそ勇気である。

義を見てせざるは勇なきなり

勇気は義(筋道が立っていること、
人としてしなければいけないこと)によって発動されなければならない。

正義、大儀のための勇猛、忍耐、果敢、豪胆、勇気

平静さに裏打ちされた勇気


一、誠の道を守ること


                        誠:
        
いつわりのない本当のこと。相手を全力で思いやる心。

真実性と誠意が無くては、
礼は道化芝居か見せ物のたぐいにおちいる。
「度を超えた礼は、もはやまやかしである」

嘘をついたり、ごまかしをやることは臆病者のやることである。
サムライは、うそ、いつわりをすることは罪悪としてでなく、
弱さとして批判していた。
そして弱さは大いに不名誉なことであった。



一、努力の精神を養うこと

  若者を教育する主たる目的は
知性でなく品性を高めることであった。

サムライは逆境に屈することのない、
高貴な精神の威厳ある権化であった。
また学問が目指すところの体現者であり、
鍛錬に鍛錬を重ねる自制心の生きた手本であった。

また、恥となることを避け、名を勝ち取るために
サムライの息子はいかなる貧苦も甘受し、肉体的、
あるいは精神的苦痛のもっとも厳しい試練に耐えたのであった。


一、礼儀を重んずること

              礼:守らなければならない作法

礼とは他人に対する思いやりを表現すること:
長い苦難に耐え、親切でむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。
自己自身の利を求めず、容易に人に動かされず、
およそ悪事というものをたくらまない

奥ゆかしさはもっとも無駄のない立ち振る舞いである。


一、血氣の勇を戒むること

勇気は、義によって発動されるのでなければ、
徳行の中に数えられる価値はないとされた。

正義、大儀のための勇気であり、
血気の勇、匹夫の勇は軽蔑された。

勇気の精神的側面は落ち着きである。
勇気は心の穏やかな平静さによって表される。

破滅的な事態のさなかでも心の平静さを保っている。
勇気と名誉はともに価値ある人物のみを平時は友とし、
戦時の敵においてはそのような人物のみを敵とすべきことを要求している。