子育て
元氣の発達・成長

人間として存在するのに一番根本的なものは何か。それは元気というものです。
この「元」には少なくとも三つの意味があります。全存在の根本という意味ではもと、立体的な意味ではおおいに、時間的にははじめ、この三者を一つにして「」と言うのです。そこで元気とは、われわれの存在、生活のもとになり、はじめになって、決してくだくだ派生することなく、どこまでも統一したものであります。だから我々の存在・活動はすべてこの元気によるのでありますから、“元気がない”というのは人間的に根本的に失格であります。
そして、そこから出てくる気力」「気魄、あるいは身体の中で最も神秘的な生理機能を営んでいる骨髄の力、骨力といったものが東洋の人間学・医学の根本をなしています。
さて、その生の力・生の徳、元気から気力・骨力といったものが発達すると、自ら我々の精神活動に理想を生じます。これを志気と申します。志気からいろいろな反省・活動が始まるわけです。したがって、志気は実行力の伴うものでなければなりません。いささかの障害にもすぐめげるようではだめです。その障害にも屈しない実行力・精神力のことを胆気と言っています。同時に志気は永続性・恒久性がなければなりません。この不動の志気を志操と申します。また障害に出会っても、散漫にならない統一性が必要です。これが志節です。志気は、志操と同時に志節であり、生活上の胆気でなければならないのであります。そうして志気が次第に発達してくると、「思惟」(しい)すなわち考える働き、大脳の作用が従来とは非常に変わってまいります。
単なる「認識」や「知識」ではなくて、人生の行動を取捨選択したりする知的能力が出てきます。これを見識と言います。知識は単なる大脳の働きに過ぎませんが、見識はもっと全人的な働きでありまして、これによって初めて我々は道徳的・真理的判断ができるのであります。その見識に実行力が伴ったものを胆識と呼んでいます。気魄・気力・骨力に志操・志節・胆気ができ、これに伴って見識・胆識が生まれると、次第に人間ができてまいります
これらの発達成長の過程を「度量衡」を使ってうまく表現しております。例えば“あの人は度量が大きい”と言います。これは知識・器(うつわ)の勝れていることであります。一般的に広く通用しているものでは「器量」という語。人間が発達するにつれて次第に器ができ、その器は物を入れること、計ることが出来ます。量はマスであります。また、長さ、進歩を表す意味の「度量」の度は物差しであります。そこで器にこの度をつけて「器度」、あるいは量をつけて「器量」などと言います。
そういう器ができ、見識が伴ってくると、精神的に自立し、判断力が発達するので信念を持つようになります。
このようにだんだん人間は単なる肉体の存在から精神的・人格的存在に、物的存在から道徳的存在になり、いわば人間そのものが芸術化してまいります。それは人間というより自然そのものであります。そこで芸術的になった人間のことを、自然の運行の大いなるリズムを「韻」とか「律」で表すところから、これに自然の最もリズミカルな風を結びつけて、「風韻」と申します。人間は学問・修行次第で、たとえ木偶(でく)のような人間でも、こういうふうに風韻、あるいは風格というものが出てまいります。

人物を修める  安岡正篤  致知出版社