子育て
昔の、父親は立派だった。

それを支えていたのは、儒教でいう「義」だった。父親は子に義をつくせと孔子はいった。母親は子をかわいがればよいのである。ところが最近の父親は粗大ゴミなどといわれるのをおそれて、子に耳ざわりのいいことしかいわない。猫かわいがわりするから母親との役割分担ができず、子どもの方は野放図にかわいがられて大きくなる。それでは困るのである。

父親は憎まれても道理を教えなければならない。

そもそも「義」という文字は「羊」と「我」から出来ている。羊は中国で最高の価値あるもので、「義」のある人間はもっとも価値ある「我」である。「義」に「言」をつけたものが「義」だから、会議とは会合してことばによって美しい自分をつくることだ。

(修空館の会議はまさにこのような会議だと思っております)

キリストを抱いたマリア像がある。母は自然に慈をあたえていることになる、ということであろう。しかし父親は、自然ではいけない。あえて理知を持って道理を教える。子どもの甘えを時にはきびしく拒否する必要がある。この父と母の関係を、胸と背中にいいかえることが出来る。母は子を胸に抱きかかえよ。反対に、父は子に背中を向けよ。父親が背を向けたために子どもが離れていってしまっては、父親失格である。自分にあえて背を向けた父親のどっしりと広がった背をみて、子が全幅の信頼感を持ち、先に歩いていく父親の背をみながら後をついていく、そのような父親こそ立派な父親である

(あごひげ先生のお父さんはまさにこのような父親ではないかと思います。)

母親の慈だって、やさしいようでそれほどやさしくない。自分が優位に立っていなければ愛せないのである。姉妹のような母子など、本当の慈があるのであろうか。母は子を育て一人前の大人にする。それは我が身から突き放すことだから、通常の愛、つまりわが身に引き寄せる愛とは逆で、この苦しみに耐える点で、母性愛は最高の愛だ。いまの日本の母親はよく「あの子もむかしは言うことを良く聞いたのに、近ごろは聞かなくなった」と嘆く。いつまでも自分の掌のなかにおいておきたいと思うのに対して、突き放すことも愛であるということが愛というのが理解できていない。要は夫婦親子それぞれが立場を自覚すること、さらに立場を異にしながら人間的信頼によって結ばれることが、家族という集団を成り立たせるということだろう。

(現在の社会環境では父親の役目は難しい。空手道を通じて修空館道場がその役目を果たすと思います。)                                           森川先輩より。       

「日本人の忘れ物」中西進 (株)ウエッジ より