子供の教育
子供の教育 愛と敬

子供はすばらしい

子供は批判と一緒に住めば、人を批判することを学び
敵意と一緒に住めば、反抗することを学ぶ。
子供は嘲笑といっしょに住めば、引っ込み思案になることを学び、
恥辱と一緒に住めば、自分を責めることを学ぶ。
一方
子供は励ましといっしょに住めば、自身を持つことを学び、
賞賛といっしょに住めば、感謝することを学ぶ。
子供は公正といっしょに住めば、正義を学び、
安全といっしょにすめば、人を信じることを学ぶ。
子供は容認といっしょに住めば、自分を愛するようになり、
受容といっしょに住めば、周囲に愛を見いだすことになる。

(ネイチェル)

いたいけな子供は愛で育つという、しかし人間である限り、いかに幼稚でも、むしろ幼少であればあるほど純粋に、愛を要求すると同時に「敬」を欲する。「敬」を満たさんとするこころがある。子供は、いかにいといけなくとも、すでに3才になれば、愛の対象、まず母の愛を欲する。可愛がられたい、愛されたいという本能的要求と同時に、敬する対象を持ちたい。畏敬するという自覚はないが、本能的要求である。敬する対象を持ち、その対象から自分が認められる、励まされる、励まされたい、という要求を持っている。

この愛と敬が相俟って初めて人格というものがでていく。その愛の対象を母に求め、敬の対象を父に求める。

道徳感情というものは5〜6才から芽生えるとともに、知能の基本的なものも、そのころから特に発動してくる。理解力、記憶力、想像力、連想力、注意力など基本的なものは7〜8才から12〜3才までが一番旺盛である。

小中学校の教育は、何を本体として何を付属とするか。言うまでもなく、人間の徳性や良習慣、即ち「躾」が本体である。人間の徳性や良い躾をするということが、教育の根本で、知識や技術はそのつけたしでよい。

子供というものは、本能的に分けて言うならば、母に愛・慈愛、父に権威・尊敬・敬慕、こういう念を本能的に持っているものである。

人間と動物を区別するギリギリ結着の問題は「敬」と「恥」である。この二つは人間に根本的に大切なものであって、これを失うと人間という獣になる。他の動物が持っていない知識・才能などを持つから最も悪質の獣になるのである。

「敬」を建前とすれば、やがて「信仰・宗教」というものが発達し、「恥」という内省的なものが建前となると、「道徳」というものになっていく。

「立派な人はそんなことはしませんよ」と注意すれば、子供の「敬」の心と「顧みる」心は連動しているのだ。そしてそこから自分は「恥ずかしい」と思う気持ちが働きだす。

注意しなければならないのは、恥ずかしいと思う気持ちは尊敬するような人格に触れたときに起きるということだ。

参考)運命を開く 安岡政篤プレジデント社