人間とは
人 物


人物と風韻

ただつまらぬ人間ではなく、
人格として優れた者を人物という
人物とはいかなる人格、
いかなる人間内容を持つものであるのか?

氣力 → 志操 → 道義 → 見識 →
器量 → 信念 → 仁愛 → 風韻


氣 力

人格の原質ともいうべき第一は氣力・・肉体的・精神的な力である。見てくれの身長や肉づき、外見的な体格、言語・動作に表れている向こう意氣と言うようなものではない。物静かなふうであっても、事に当たると、粘り強い、迫力や実行力に富んだ人がいる。潜在的エネルギーの問題である。孟子で名高い「浩然の氣」がそれである。
この氣力が養われていなければ、せっかくの理想や教養も、
観念や感傷になってしまう。


志 操

氣力はその人の生を必ず実現せんとする何ものかを発想する。
これを理想・・志という。理想・・志は空想ではない。
理想・・志を抱くことは、即ち生命の旺盛な実証である。
その場合、氣は生氣より、進んで志氣となる。
それが現実のさまざまな矛盾・抵抗に逢って、容易に挫折したり、
消滅することなく、耐久性・一貫性を持つことが「操」であり、
「節」であって、志氣はここに志操・志節となる。
現実の矛盾・抵抗に屈せぬ意味では胆氣という。


道 義

志が立つに伴って、人間の本具する徳性や、理性・知性は反省ということを知って、ここに我々の思惟・行為に、何がよいか、悪いかの判断を生ずる。これを義という。義は宜である。そして実践と離れることのできない性質のものであるから、道義というのである。

これに反して単なる欲望の充足に過ぎず、往々それは志の害となりやすい性質のものを「利」と称してきた。これを「義理の弁」という。利と義が一致するほど真の利である。

「義は利の本なり」、「利は義の和なり」ということは正しい。


見 識

我々の思惟・言説・行為について、何が義か、利か、何人もが良心的に肯定するとか、単なる私欲の満足にすぎぬことかというような価値判断力を見識という。見識は知識と異なる。知は知性の機械的労作によっていくらでも得られるが、それだけでは見識にならない。理想を抱き、現実のいろいろな矛盾・抵抗・物理・心理との体験を経て、生きた学問をしてこなければ見識は養われない。この見識に関連して、特にそれが現実の矛盾・抵抗に屈することのない決断力・実行力をもつとき、これを胆識(胆気と見識の一和)という。


器 量
見識を持つに至って、人間はようやく現実の生活・他人・社会・種々なる経験に対する標準が役立ってくる、尺度が得られる。自分で物をはかることができるようになる。人は形態的に言えば、ひとつの「器」であるが、これを物差しや枡にたとえて、器度とか、器量というのである。「器量人」という言葉が昔からよく使われるが、つまり、多くの人の人生の悩み苦しみを受け入れて、ゆったりと処理してゆけることである。

信 念

器量ある人間が、人生の体験を積んで磨かれてくるとともに、だんだんその理想・見識というものが、深さ・確かさ・不動性をもってくる。それを信念という。人は信念を得て始めて事実に到達する。実有を信じ、有徳を信じ、有能を信じ、能く心をして境において澄浄ならしめる。真実なるが故に、盲目的な愛欲ではなく、人生を汚染することなく愛することができる。

仁 愛

人が万物と生を同じうするところより生ずる共鳴を愛情という。知を頭脳の論理とすれば、情は心腹の論理である。万物と共に生きよう、物と一体になってその生を育(はぐく)もうとする徳を仁という。仁愛はおぼつかない、悩める衆生に対しては限りない慈悲となる。愛は「かなし」である。この慈悲仁愛は人格の最も尊い要素(徳)であり、信念はこの徳と相俟って人を聖にする。人は智の人でなくてもよい、才の人でなくてもよい、しかしどこまでも情の人でなければならない。