指導、稽古 1
氣づき
(指導者の条件)

安岡正篤にみる指導者の条件
神渡良平  大和出版

君子は必ず自ら反(かえ)る、
何事によらずまず自分に反る。
自分に反ってはじめて
本当に自分を知ることができる。

「学ぶということは自ら覚(さと)る事だ」(中江藤樹)。
すなわち学は覚である。

人間、学ばないと、藤樹先生の言うとおり、「迷睡昏々たり」で、
つまらないことにどこまでも迷って、ぼんやり眠っているのと同然、
何もわからない。しかし、「学べば明覚惺々(せいせい)たり」、
星が輝いているように心中明るく冴える。学んでも覚らなければ、
これは学ばざるに等しい。藤樹先生は、まず、
自ら反って覚ろうということに懸命に取り組まれたわけです。

「氣づき」とは「出来事を通して氣づき、
自分の身に照らし合わせて反省し、
学ぶ」ことである。

歴史に名を残すような偉大な人々は、
小さな出来事にも大きく気づいて、
自分の人生への貴重な教訓とし、
活用した人々である。

凡人でしかないわたしたちは、
先人たちが苦難を通して気づいたことを追体験して、
人生の糧としたいのである。

いろいろなことを通して与えられる「氣づき」が、
人間を人間に成長させる。
人間は「氣づく」ことによって、思いやりのある人間に変わっていく。

ついつい見過ごしてしまうものに気づかせること、
これが東井先生の心がけられた教育だった。


風邪を引く

ウィルスという他者が自分の体に侵入して病気になるのではない。
自分もウィルスも共に天の一部である。

天は自分に目覚めさせようとして、
たとえばウィルスを侵入させて病気にした。
すべての病気は、あることに気づかせようとする天のメッセージである。

だから、病気にかかって深刻に悩み、
紆余曲折、七転八倒の末に、そのメッセージをつかみとれば、
ウィルスの用いられた意味が分かる。


目を覚ます

人間はときどき衝撃を受けて目が覚める。
目を覚ますことが最も必要です。

人間の生命というものは、
慢性的、慣習的、因襲的になると
たちまちダレてしまいます。
これにショック療法で、ときどき衝撃を与えない
と生命は躍動しない。

真我を取り戻すためにこそ、
氣づいて目を覚ますことが必要です。

人生における良き師や良き友が必要なのは、
易きにつき、慢性的になりやすい自分を
奮起させるためである。


多逢勝因

散漫になった自己をあらゆる機会において
取り戻す必要がある。
枝葉末節に走るところの自己を
本来の自己に深く立ち返らせる、
つまり自分をつかみ、自分自身を徹見することが、
一切万事の根本なのです。

しかし凡人は何らかの機縁というものがないとできない。
そこで浮上してくるのが勝因です。

勝れたる原因となる勝因を結ぶ、
あるいは勝因に出会うことです。

「多逢勝因」は自分一人ではなかなか結ぶことができないけれども、
逢うことはできる。いや、自分を取り戻す必要がある。

つまり、人間はできるだけいい機会、
いい場所、いい人、いい書物、
そういうものにバッタリ出くわすことを
考えなければならない。

これを「多逢勝因」という。